平成22年2月8日
〜ODA現場で活躍する日本人の言葉〜
パプアニューギニアのブーゲンビル島に日本の無償支援で大小15の橋が架けられようとしている。今回、現地の安全調査依頼があったので、2週間と短い時間ではあったが、小職なりの現地への思いがあったので、喜んで現地へ飛んだ。
パプアニューギニアの首都ポートモレスビーからブカ島を経由し、ブーゲンビル島へと入る。噂どおりの高温多湿である。ちょっと歩くだけで汗が流れ落ちる。
電気、プロパンガス、水道の生活インフラは、何とか整備されてはいるが、頻繁に停電するし、食材も首都からの搬送が少ないのか、肉類の入手が難しく、もっぱら島で獲る魚を食べなければならない。しかし、海は自然のまま残されているから、限りなく美しい。
この島に架かる橋が、度重なる洪水で崩落しているため、日本の無償援助で橋が架けられる。工期は、約2年半だ。
同島では、1988年から2001年までの間、分離独立を求める「ブーゲンビル革命軍(BRA)」と政府軍との間で戦闘が繰り返されたため、現在でも南部のアラワ以南は、日本外務省によれば、立ち入らないでほしいエリアとなっている。
今回は、ブカからアラワ以南のキエタ港にも入って安全調査を行った。その結果、一定の安全対策を講じておけば、安全に支援業務を継続できるという結論に達した。島民は紛争に疲れており、平和的な生活を求めている。多くの島民が仕事に就けないため、昼間から木陰で屯する若者が多く、バナナなどの果実から作る地酒を飲み酩酊している。殆どの島民は、ジャングルの中を歩く時に必要だからブッシュナイフを携行している。こうした点は、十分注意しなければならない。
首都をはじめ、同島でも、今回の日本の無償支援に対する関心と感謝の声は、極めて大きい。対日感情は良好である。
そして、良好な対日感情の要因のひとつに、先の戦争があるようだ。この島には、1942年から45年まで日本陸海軍が進駐し、米豪軍と激戦を展開した。戦史によると、陸軍約4万人、海軍約2万人の計6万人余が乏しい補給の中で戦った。当時、ガダルカナル島が「餓島(がとう)」と呼ばれ、ブーゲンビル島は「墓島(ぼとう)」と呼ばれていた。こうした史実を肌で感じたいと常々思っていたので、どうしても訪問したい地域であった。
これまで、多くの日本人の方々が慰霊のために同島を訪問されており、いたる所に慰霊碑等が建てられていたが、日々の手入れをする人もいないのか、それらは草木の中に埋もれてしまっているところが多かった。ブーゲンビル島南部のアラワからキエタ港に向かう道路脇にそのひとつがある。ゼロ戦、戦車、野砲が運ばれたのであうか並ぶように展示され、慰霊碑らしきものが建てられていた。慰霊碑の文字は消え去り、草木に覆われていた。
今回の日本の無償援助は、この島の橋を完成させることだが、その業務に携わるわずか3〜4人の日本人の方々が、次のようなことをしようと決意している。
「橋梁工事が完了し、引渡し式が終わったら、せめてこの場所の草刈りをして、できれば塀で囲み、慰霊碑をきれいにして、島民のみなさんがその後も時々手入れをしてくれるような場所にして帰国したい」
私は、是非その作業に参加させていただきたいとお願いした。他にも同様の場所は多数あるし、今後、同国に色々な形の日本の支援が行われる都度、できる限りそうしたことをしていこうという思いで同国を後にした。聞くところによれば、先の戦争で亡くなられた方々の遺骨収集作業等に対する日本国の支援は、先進国としては脆弱との由。先の戦争の総括をすることもなく、戦争反対を声高に主張することは結構だが、せめて亡くなられた方々の地に足を運び、慰霊をすると同時に、年老いた島民から若い島民へと現地で語り継がれている当時の日本人の方々の断片的な話に耳を傾けては如何か。「礼儀正しく、タフな方々だった。学校を建設し、農耕や物づくりを教えてくれた」と皆が口をそろえる。決してお世辞ではない。私には、次回の訪問が待ち遠しいし、ODA終了後の仕事が残っているのである。